世界を変えるはずの女の子が死んでしまった

※この文章は2020年秋に執筆されたものです。

世界を変えるはずの女の子が死んでしまった。あの子は世界を変えるはずだった。暴力で、殺意で、この世を変えるはずだったあの子は、暴力で、殺意で、殺されてしまった。それはまるで私の夢を否定されているようだったし、私自身が死ねと言われているようだった。

 

人によっては本当に理解できないかもしれないけれど、私は物語をいつも私の中に入れないと気が済まない。私の中に入れようとして、私の中に入る部分と入らない部分が、どうしても出てくる。それは他人の語った物語が決して私のものにならないからでもあるし、どのような物語であっても/誰が相手であっても、物語というものはいつもどこかで完全な支配を拒むからでもある。とにかく自分の中に物語を入れるという行動は、あらかじめ失敗することが決まっていて、それでも一部を入れることはできるし、その一部が人間を生かしてしまったりするから、非常に複雑で厄介で、同時に寂しい営みなのだ。

特に少年漫画を愛好している私にとっては、この営みはいつも難しかった。ほとんどの少年漫画は私のために作られていないからである。マッチョイズムや、無邪気に繰り出されるセクハラシーンや、冗談みたいに掲出される差別的な発言が、いつも私の体の中で拒絶反応を起こす。そして物語は、アニメ、小説、外伝、グッズ、そして読者によってWebに公開される作品の解釈や二次創作(これらは「公式」が読者に要請する一種の労働だ)に至るまで、際限なくメディアミックスされ続け、情報は意図的に氾濫させられる。その全てを拾い集めるにはおそろしいほどのお金と時間と体力が必要だ。それでもできうる限り情報を溢れさせ、常に「供給」を絶やさぬように仕組むのが、版元が最大限お金を回収するための「作品のプラットフォーム化」なのだった。この構造は、物語を体に入りきらない大きさに膨張させ、距離を取ろうにも無視できないほどの蠢動をもたらす。だから少年漫画を好きになることは、常に痛く、悲しい。それでも好きにならざるを得ない。いつも難しかった。いつもどうしていいかわからないまま、それでもいろんなものを飲み込もうとしてきた。

しかしその苦痛の中にも、私の中に入ってきて、私の一部になってくれた、唯一無二のキャラクターたちがいた。そのほとんどは、主人公の少年らと肩を並べて最前線で戦う、「攻撃的な女性」たちであった。

 

 『呪術廻戦』という漫画の、釘崎野薔薇さんという人の話をさせてください。野薔薇さんは呪術師だ。藁人形に釘を打ちつけて対象を攻撃する「芻霊呪法」という呪いの能力(術式という)を持っていて、呪いと呼ばれる人間の負の感情が具現化したものを祓う仕事をしている。

呪術師は非常に過酷でむごい仕事だ。呪いは人間を殺そうとするので、呪術師は自分も呪いの力を用い、それらを打ち破らねばならない。「呪術師に後悔のない死はない」と言われるほど、呪術師が畳の上で寿命で死ねる確率は低い。その上、仕事は社会的に不可視化されている。すなわち、誰からも感謝されない仕事を、自分の命を危険に晒して続けねばならないのである。「呪術師になる」ということは、「呪術師ではない」ことをやめるのと同じだった。自分がなぜこの仕事をするのか考え、その理由を軸にしなければ、呪いの跋扈する戦場には立つことすらできないのだ。あいまいなまま生きることはほとんど不可能なのだ。

野薔薇さんがまだ高校生なのにそんな過酷な仕事をしているのは、野薔薇さんが呪いを祓う力を持って生まれた非常に奇特な人であったという理由もあるけれど、それ以上に野薔薇さんが故郷の村を離れて東京へ行きたいと望んだからだった。誰かと他人でいることができない田舎の村では、野薔薇さんは「釘崎野薔薇」として生きていくことが全くできなかったからだ。ひとりで東京に暮らす。そのためなら、野薔薇さんはなんだってできた。耐えざる死の接近も、閉じた故郷に閉じ込められるよりははるかによかったのだ。野薔薇さんはそのような選択を自分で行う一人の主体だった。

野薔薇さんはとても自己中心的で、自分の意思で命の危機を無視するほど攻撃的な性格をしていて、実際に強かった。強いというのは、能力の話でもあり、精神の話でもある。

「男がどうとか女がどうとか 知ったこっちゃねーんだよ!! テメェらだけで勝手にやってろ!!」

「私は綺麗にオシャレしてる私が大好きだ!! 強くあろうとする私が大好きだ!!」

「私は『釘崎野薔薇』なんだよ!!」

私は野薔薇さんのこのセリフが大好きだ。これは呪術師業界に横たわる苦しい因習――女性呪術師の評価が男性呪術師に比べて不当なものであること、容姿まで完璧にしなければ舐められること、この抑圧は呪術師の名家出身の女性に対して最も強く働くこと――を理解するよう年上の女性呪術師に説教されたシーンに対する応答である。その女性呪術師は、先達が踏んだ苦い轍を理解してお前も同じ道を踏むべきだと、野薔薇さんに要請していた。だが野薔薇さんはそれを拒んだのである。自分の苦労を下の世代にも強要する先達、そして女性呪術師に対する抑圧を作り出している構造の全てを唾棄するセリフであった。構造の話をしている相手に個人の話で返すのは、はっきり言ってちぐはぐで、会話として成立しているとは言えない。だが野薔薇さんはどこまでも、他人と自分を徹底して分離し、自我の猥雑さ、曖昧さを否認した。それが野薔薇さんを呪術師たらしめていた。野薔薇さんが正しい、とは言い切れないけれど、それでも野薔薇さんはかっこよかった。

 

野薔薇さんは仕事で、呪いによって改造された人間――もう助からないとはいっても、人間の身体としては生きている――を殺してしまったときも、気丈にしていた。野薔薇さんと一緒に同じ仕事をしていた『呪術廻戦』の主人公である虎杖悠仁は、自分は実質的には殺人を犯したのだと考えてとても傷つき、野薔薇さんは傷ついていないかと心配をした。

しかし野薔薇さんは、「私の人生の椅子に座っていない人間に、私の人生をどうこうされたくない」と思っているから自分は大丈夫なのだ、と答えた。さらに虎杖に「私たち共犯ね」と提案し、殺害の罪と責任を、軽々と折半したのである。

救う手立てがいっさいなくなっていたとしても、やはりまだ人間である身体を殺したことについて、自分を勝手に免責するでもなく、相手の責任を勝手に取り払うでもなく、野薔薇さんはすんなりと、全てを対等に、分けて背負った。「人生の椅子」という主観を決定的に保持しながら、同時に他者の苦しみを身軽に受け取って見せる。その姿勢がとても誠実で、私は野薔薇さんが本当に大好きだった。そういうかっこよさを持って第一線で戦う、暴力的で攻撃的で、殺意を持った野薔薇さんが大好きだった。

 

そして野薔薇さんは殺されてしまった。

短く、過酷で、まだやりたいことがたくさんあった人生について、「悪くなかった」と言い残して死んでしまった。

だから野薔薇さんは、「呪術師に後悔のない死はない」というセオリーを、最後の最後で裏切って「見せた」ことになる。本当は、いくつかの後悔はあった。それでも野薔薇さんが死ぬ瞬間、野薔薇さんの目の前には虎杖がいたから、野薔薇さんは虎杖に託す言葉として、「悪くなかった」を選んだ。それはそれで真実なのだと思う。野薔薇さんの前に虎杖がいたのと同じように、野薔薇さんの中には、すでにたくさんの人たちが野薔薇さんの「人生の椅子」に腰掛けていたからだ。

最期まで野薔薇さんはかっこよかった。作者もそれを誠実に描こうとしているのがよく伝わってきた。だから私は作者を怒れない。これはそういう物語だから。

でもやっぱり野薔薇さんの死は、私自身が「死ね」と言われているのと同じことだった。私は殺意を持った女性が世界を変えることを、ずっと夢見ていたからだ。野薔薇さんが世界を変えてくれるんじゃないかと期待していたからだ。これが誠実に描かれた残酷さなのだというなら、私も同じ世界の同じ残酷さに遭って、どこかで――もちろん相手は呪いではないだろうけど――死ぬんじゃないかと思った。私は野薔薇さんのことだけは飲み込んでいたのだと、そのときはっきり理解した。すべては連動していた。私は死んでしまいたくなった。

 

私がこういう状況に陥ったのは、私の性格や考え方の傾向のせいでもあったし、当時の私が置かれていた状況がいろいろな意味で困難であったせいでもある。

野薔薇さんが死んでしまったとき、私は鬱病の治療を始めたばかりだった。私は連日身体が思うように動かせずにいたし、心の外側にあったはずの殻が一枚溶かされて、普段はアクセスできないようなやわらかい部分に、いくらでもいろいろなものが繋がれてしまう状態になっていた。解凍後の鶏胸肉にUSB端子がぶっ刺さっているようなイメージで、私の情緒と『呪術廻戦』は繋がってしまっていたのである。それは同作が何より私の心の支えであったのと同時に、物語をできるかぎり飲み込もうとして、当たり前のように失敗し、それでも心身に繋がっているのでうまく距離が取れない、という厄介な状況にあったことを示している。

鬱の治療を始める少し前(二〇二〇年の夏だった)、週刊少年ジャンプ編集部の性差別問題が噴出していた。これは確実に私の精神状態を脅かすできごとであった。私はジャンプの現役作家が起こした性犯罪に対する編集部のコメントが非常に「悪かった」ことに絶望し、長く続けていた定期購読を打ちとめたのである。これは自分で決めたことだったが、同時に毎週リアルタイムで更新されていく『呪術廻戦』から離れるのは、これ以上ないほどつらい経験だった。なんせ、私は物語と接続してしまっている。自分の内側にあったものを無理やり引き剥がし、空っぽになった自分だけが引越しトラックに乗った子どものように遠くへ運ばれていってしまうような、莫大な喪失感があった。

この喪失感を経験してから、なおさらジャンプから離れなくてはならない、と強く思った。私はもう、体に入りきらないものに振り回されたくなかったのである。物語と自己を、きちんと切り分ける練習が必要だった。だからもう一度購読して空いた穴を埋めるのではなく、「見ない」ことで距離を作ろうと、懸命な無視を続けていた。

それでも購読を止めた直後から『呪術廻戦』のアニメは放映されていたから、情緒はずっとめちゃくちゃなままだった。だってやってたら見ちゃうじゃん。体に入れたくて入れられなかったものが視界の中で光り輝いているのは、やはりとても苦しい経験だったが、それでも目の前にあふれている光は美しいから、一生懸命に見た。

そういうときに、野薔薇さんが死んでしまったらしい、という文章が、ツイッターに流れてきた。その文章が流れてくるまで、今日が月曜だと知らなかった。月曜の〇時を忘れられるぐらいには、距離を取れてきていた証拠だった。それが一瞬で崩れた。私はジャンプを買い、ぼうぜんとして、それから泣いた。翌朝はまた身体が全く動かせなくなっていた。夕方に起きて、夜にまた泣いた。

野薔薇さんは死んでしまって、私はそれを自分のこととして受け取ってしまった。これは何もいいことではない。物語に振り回されることに価値を見出している状況を無下にすべきではないが、同時に振り回される自己/振り回される他者を「面白い」ものだとは絶対に思ってはいけない。本当に抜け出せなくなる。物語、いや物語だけじゃない、自分にコントロールできない何かと自分を繋げすぎてしまったら、対象が自分を振り回すような速度の差が生じたとき、自分という主体は毛糸のようにするすると解けてなくなってしまうのだ。自分と対象の癒着にへらへらしていると、すぐに自分の側がすり減る。おとぎ話みたいに消えてなくなる。これは本当のことだ。どれだけ自分が相手を飲み込んでいたとしても、相手の痛みが相手のものでしかないということを、絶対に忘れてはいけない。

 

私がこの文章を書き始めたのは、涙を止めるためだった。私が野薔薇さんの死を、あの世界を変えるはずだった女の子の死を自分から引き剥がし、傷が広がるのを食い止め、野薔薇さんを他者として悼むためだった。他者である野薔薇さんの痛みを、ともに受け止めてきちんと苦しむためだった。ここまで書いて、やっと涙は止まった。もういい、もういいよ。私が野薔薇さんに自分の系譜を感じていたことは何一つ間違いではないし、それが表象の持つ代表性(representation)というパワーなのだと思う。でも野薔薇さんは、私ではない。私はほどけた自分をちゃんと巻き直し、他者として野薔薇さんのことを悼まねばならない。

私は死なない。ありがとう野薔薇さん。あなたのことが本当に大好きです。

 

この文章を書いたあと、どうやら野薔薇さんが生きているようだ、という展開が見えてきた。それを知ってから、静かに私の情緒は、作品から分離されていった。

今はもう、ジャンプの発売日に情緒が荒れることもなく、ただ淡々と読みたい単行本だけを入手して読むルーティーンを受け入れている。それもまた、野薔薇さんのおかげなのだと思う。