2/6朝(統合失調中)

・1 というちょっと自分にとって嫌な、あるいは傷つくような出来事があったとして 私の頭の中では即座にそれが 100 に変換されてそこから動かせなくなってしまう。明らかに脳みそがおかしい。自分の性根のせいももちろんあるのだろうが。

・もう少し具体的に言うと:少し何かがあっただけで、頭の中が極端な考えで埋め尽くされ、全くそれを払拭できなくなる。もう自分は死ぬしかないという発想に一瞬でたどり着き、そこから違う考えに切り替えることができなくなる。

・今私はあらゆる人と関わるのが恐ろしく、自分を見つめることもまた難しい。あらゆる言葉を受け入れるのが困難になっている。生きているのが恥ずかしく、情けなく、どうしようもない。苦しい。

・ここから抜け出すには認知行動療法やカウンセリングが必要だと思う、と友人からアドバイスされたが、お金がないのでそれを受けることは現状難しい。

・とりあえずすすめられたコーピングのアプリを使っているが、考え方を変えるのが自分にとっていかに難しいかをすでに実感している。それでも変わりたいから、どうにか考えたい。

・それと同じくらいみんなの前から消えて存在を詫びたいという気持ちがある。助けてくれ

日記1/29朝(休日、統合失調中)

・27は友人と会って気が晴れていたものの、その日の夜にその友人とは無関係のいろいろな私事があり、激しく落ち込む。具体的には言えないが、詰まるところは私自身の在り方に人間として問題がある、ということが詳らかになったような、そういう出来事である。

・28はまる一日そのことで頭がいっぱいだった。どうすればまともな人間になれるのだろうと考えていた。自分にすぐ思い当たるのはこれまで見ないふりをしてきた発達障害傾向のことだった。もちろん自分のあり方に問題があるというのは気質以上に性根のことではあるのかもしれないが、実際困りごとがある以上、薬で解決できることはしたいと思っている。それでも変わらない部分は、ソーシャルスキルレーニングとか、その手のジャンルの読書とか、社会性を身につけるための学習を続ける他ない。

・具体的に困っているのは以下のことだ:感情のコントロールができない、日中に理由のない強い眠気がある(これは特発性過眠症として診断済み)、衝動的な行動を取ってしまう、ソーシャルスキルが著しく低い、生活やスケジュールの管理ができない、多動でじっとしていられない

・これまでは周囲の優しさに甘えきって生きてきたのだなと実感する。しばらく孤独になるべきかもしれない。

・28夜に映画「王国(あるいはその家について)」を見に行く。全然わからなかった。周りがめちゃくちゃ絶賛していた&熱烈に勧められていたからそれほど面白いのかなと思って期待していたのだが、びっくりするほど眠くて、理解できなくて、理解したくて、やっぱりわからなくて、私がおかしいのかなと思って悲しくなってしまった。シナリオを買って電車の中で読破したら、それは普通に面白くて、劇映画として普通に見たいと思ってしまった。実際の映画はリハーサルの様子を何度も繰り返し流すという実験的手法で撮影されていて、私にはその意味がよくわからなかった。映画は普段ほとんど見ないから、そもそもよくわかっていないのかもしれない。映画というものについて。

・帰り道で人が改札から溢れるのを見て、あー死んじゃいたい、と思う。ホームドアのある駅しか通らなかったから、私は死ななかった。それが幸運だったのかどうかは、定かではない。

日記1/20(統合失調中)

・病院に行くために起床。もうすでに3回通院に失敗しているから今度こそと思ったのだけど、やはりだめで、また寝坊してしまう。病院に電話をかけてもう一度予約を取る。今回こそは通院したかったのだが、本当に土曜午前に起き上がることは難しすぎる。諦めてまた寝る。

・ここ数日の希死念慮がおかしくなってきているのは自覚していて、だからこそ病院に行きたかったのだが、だめだったので実家に行く。パソコンは持たずにゲームだけ持っていく。返せていないメールがたくさんある。本当にごめんなさいと思いつつやはり何もできる気がしない。

・実家でお茶と温かいご飯にありつき、ポケモンとかをプレイして、衝動的な気持ちが少し落ち着く。

・自分があまりにも感情的すぎて、それが言動に直結してしまうことや、自分が感じたことのすべてを誰かに開示しないと気がすまないというある種の依存症的な側面について考える。何をすればそれが改善されるのだろう。まずは薬、あとはカウンセリングや認知行動療法や、必要に応じて発達障害の検査だろうか。しかしどこからどこまでが私の性根の問題で、どこからどこまでが病気の問題なのかわからない。何かと医療に頼ろうという考えに向かうのは、私の「甘え」とか「逃げ」なのかもしれない。「甘え」も「逃げ」も苦手な言葉だが、自分の加害的な部分から目をそらすような姿勢は取りたくなくて、難しい。責任というものは、絶対にある。

・理性で理解できても感情がそれを承服できないということが多々あり、その感情のアップダウンをどうにか抑えたい。そうでないと私も周りも身が持たない。

・結局のところ、精神や社会性に問題のある人間として、どのように持続可能な形で他者に関わるのか、ということを、私はまだまだ反省と謝罪を繰り返しつつ学ぶ必要がある。

・こんな人間に生まれたくなかった。

世界を変えるはずの女の子が死んでしまった

※この文章は2020年秋に執筆されたものです。

世界を変えるはずの女の子が死んでしまった。あの子は世界を変えるはずだった。暴力で、殺意で、この世を変えるはずだったあの子は、暴力で、殺意で、殺されてしまった。それはまるで私の夢を否定されているようだったし、私自身が死ねと言われているようだった。

 

人によっては本当に理解できないかもしれないけれど、私は物語をいつも私の中に入れないと気が済まない。私の中に入れようとして、私の中に入る部分と入らない部分が、どうしても出てくる。それは他人の語った物語が決して私のものにならないからでもあるし、どのような物語であっても/誰が相手であっても、物語というものはいつもどこかで完全な支配を拒むからでもある。とにかく自分の中に物語を入れるという行動は、あらかじめ失敗することが決まっていて、それでも一部を入れることはできるし、その一部が人間を生かしてしまったりするから、非常に複雑で厄介で、同時に寂しい営みなのだ。

特に少年漫画を愛好している私にとっては、この営みはいつも難しかった。ほとんどの少年漫画は私のために作られていないからである。マッチョイズムや、無邪気に繰り出されるセクハラシーンや、冗談みたいに掲出される差別的な発言が、いつも私の体の中で拒絶反応を起こす。そして物語は、アニメ、小説、外伝、グッズ、そして読者によってWebに公開される作品の解釈や二次創作(これらは「公式」が読者に要請する一種の労働だ)に至るまで、際限なくメディアミックスされ続け、情報は意図的に氾濫させられる。その全てを拾い集めるにはおそろしいほどのお金と時間と体力が必要だ。それでもできうる限り情報を溢れさせ、常に「供給」を絶やさぬように仕組むのが、版元が最大限お金を回収するための「作品のプラットフォーム化」なのだった。この構造は、物語を体に入りきらない大きさに膨張させ、距離を取ろうにも無視できないほどの蠢動をもたらす。だから少年漫画を好きになることは、常に痛く、悲しい。それでも好きにならざるを得ない。いつも難しかった。いつもどうしていいかわからないまま、それでもいろんなものを飲み込もうとしてきた。

しかしその苦痛の中にも、私の中に入ってきて、私の一部になってくれた、唯一無二のキャラクターたちがいた。そのほとんどは、主人公の少年らと肩を並べて最前線で戦う、「攻撃的な女性」たちであった。

 

 『呪術廻戦』という漫画の、釘崎野薔薇さんという人の話をさせてください。野薔薇さんは呪術師だ。藁人形に釘を打ちつけて対象を攻撃する「芻霊呪法」という呪いの能力(術式という)を持っていて、呪いと呼ばれる人間の負の感情が具現化したものを祓う仕事をしている。

呪術師は非常に過酷でむごい仕事だ。呪いは人間を殺そうとするので、呪術師は自分も呪いの力を用い、それらを打ち破らねばならない。「呪術師に後悔のない死はない」と言われるほど、呪術師が畳の上で寿命で死ねる確率は低い。その上、仕事は社会的に不可視化されている。すなわち、誰からも感謝されない仕事を、自分の命を危険に晒して続けねばならないのである。「呪術師になる」ということは、「呪術師ではない」ことをやめるのと同じだった。自分がなぜこの仕事をするのか考え、その理由を軸にしなければ、呪いの跋扈する戦場には立つことすらできないのだ。あいまいなまま生きることはほとんど不可能なのだ。

野薔薇さんがまだ高校生なのにそんな過酷な仕事をしているのは、野薔薇さんが呪いを祓う力を持って生まれた非常に奇特な人であったという理由もあるけれど、それ以上に野薔薇さんが故郷の村を離れて東京へ行きたいと望んだからだった。誰かと他人でいることができない田舎の村では、野薔薇さんは「釘崎野薔薇」として生きていくことが全くできなかったからだ。ひとりで東京に暮らす。そのためなら、野薔薇さんはなんだってできた。耐えざる死の接近も、閉じた故郷に閉じ込められるよりははるかによかったのだ。野薔薇さんはそのような選択を自分で行う一人の主体だった。

野薔薇さんはとても自己中心的で、自分の意思で命の危機を無視するほど攻撃的な性格をしていて、実際に強かった。強いというのは、能力の話でもあり、精神の話でもある。

「男がどうとか女がどうとか 知ったこっちゃねーんだよ!! テメェらだけで勝手にやってろ!!」

「私は綺麗にオシャレしてる私が大好きだ!! 強くあろうとする私が大好きだ!!」

「私は『釘崎野薔薇』なんだよ!!」

私は野薔薇さんのこのセリフが大好きだ。これは呪術師業界に横たわる苦しい因習――女性呪術師の評価が男性呪術師に比べて不当なものであること、容姿まで完璧にしなければ舐められること、この抑圧は呪術師の名家出身の女性に対して最も強く働くこと――を理解するよう年上の女性呪術師に説教されたシーンに対する応答である。その女性呪術師は、先達が踏んだ苦い轍を理解してお前も同じ道を踏むべきだと、野薔薇さんに要請していた。だが野薔薇さんはそれを拒んだのである。自分の苦労を下の世代にも強要する先達、そして女性呪術師に対する抑圧を作り出している構造の全てを唾棄するセリフであった。構造の話をしている相手に個人の話で返すのは、はっきり言ってちぐはぐで、会話として成立しているとは言えない。だが野薔薇さんはどこまでも、他人と自分を徹底して分離し、自我の猥雑さ、曖昧さを否認した。それが野薔薇さんを呪術師たらしめていた。野薔薇さんが正しい、とは言い切れないけれど、それでも野薔薇さんはかっこよかった。

 

野薔薇さんは仕事で、呪いによって改造された人間――もう助からないとはいっても、人間の身体としては生きている――を殺してしまったときも、気丈にしていた。野薔薇さんと一緒に同じ仕事をしていた『呪術廻戦』の主人公である虎杖悠仁は、自分は実質的には殺人を犯したのだと考えてとても傷つき、野薔薇さんは傷ついていないかと心配をした。

しかし野薔薇さんは、「私の人生の椅子に座っていない人間に、私の人生をどうこうされたくない」と思っているから自分は大丈夫なのだ、と答えた。さらに虎杖に「私たち共犯ね」と提案し、殺害の罪と責任を、軽々と折半したのである。

救う手立てがいっさいなくなっていたとしても、やはりまだ人間である身体を殺したことについて、自分を勝手に免責するでもなく、相手の責任を勝手に取り払うでもなく、野薔薇さんはすんなりと、全てを対等に、分けて背負った。「人生の椅子」という主観を決定的に保持しながら、同時に他者の苦しみを身軽に受け取って見せる。その姿勢がとても誠実で、私は野薔薇さんが本当に大好きだった。そういうかっこよさを持って第一線で戦う、暴力的で攻撃的で、殺意を持った野薔薇さんが大好きだった。

 

そして野薔薇さんは殺されてしまった。

短く、過酷で、まだやりたいことがたくさんあった人生について、「悪くなかった」と言い残して死んでしまった。

だから野薔薇さんは、「呪術師に後悔のない死はない」というセオリーを、最後の最後で裏切って「見せた」ことになる。本当は、いくつかの後悔はあった。それでも野薔薇さんが死ぬ瞬間、野薔薇さんの目の前には虎杖がいたから、野薔薇さんは虎杖に託す言葉として、「悪くなかった」を選んだ。それはそれで真実なのだと思う。野薔薇さんの前に虎杖がいたのと同じように、野薔薇さんの中には、すでにたくさんの人たちが野薔薇さんの「人生の椅子」に腰掛けていたからだ。

最期まで野薔薇さんはかっこよかった。作者もそれを誠実に描こうとしているのがよく伝わってきた。だから私は作者を怒れない。これはそういう物語だから。

でもやっぱり野薔薇さんの死は、私自身が「死ね」と言われているのと同じことだった。私は殺意を持った女性が世界を変えることを、ずっと夢見ていたからだ。野薔薇さんが世界を変えてくれるんじゃないかと期待していたからだ。これが誠実に描かれた残酷さなのだというなら、私も同じ世界の同じ残酷さに遭って、どこかで――もちろん相手は呪いではないだろうけど――死ぬんじゃないかと思った。私は野薔薇さんのことだけは飲み込んでいたのだと、そのときはっきり理解した。すべては連動していた。私は死んでしまいたくなった。

 

私がこういう状況に陥ったのは、私の性格や考え方の傾向のせいでもあったし、当時の私が置かれていた状況がいろいろな意味で困難であったせいでもある。

野薔薇さんが死んでしまったとき、私は鬱病の治療を始めたばかりだった。私は連日身体が思うように動かせずにいたし、心の外側にあったはずの殻が一枚溶かされて、普段はアクセスできないようなやわらかい部分に、いくらでもいろいろなものが繋がれてしまう状態になっていた。解凍後の鶏胸肉にUSB端子がぶっ刺さっているようなイメージで、私の情緒と『呪術廻戦』は繋がってしまっていたのである。それは同作が何より私の心の支えであったのと同時に、物語をできるかぎり飲み込もうとして、当たり前のように失敗し、それでも心身に繋がっているのでうまく距離が取れない、という厄介な状況にあったことを示している。

鬱の治療を始める少し前(二〇二〇年の夏だった)、週刊少年ジャンプ編集部の性差別問題が噴出していた。これは確実に私の精神状態を脅かすできごとであった。私はジャンプの現役作家が起こした性犯罪に対する編集部のコメントが非常に「悪かった」ことに絶望し、長く続けていた定期購読を打ちとめたのである。これは自分で決めたことだったが、同時に毎週リアルタイムで更新されていく『呪術廻戦』から離れるのは、これ以上ないほどつらい経験だった。なんせ、私は物語と接続してしまっている。自分の内側にあったものを無理やり引き剥がし、空っぽになった自分だけが引越しトラックに乗った子どものように遠くへ運ばれていってしまうような、莫大な喪失感があった。

この喪失感を経験してから、なおさらジャンプから離れなくてはならない、と強く思った。私はもう、体に入りきらないものに振り回されたくなかったのである。物語と自己を、きちんと切り分ける練習が必要だった。だからもう一度購読して空いた穴を埋めるのではなく、「見ない」ことで距離を作ろうと、懸命な無視を続けていた。

それでも購読を止めた直後から『呪術廻戦』のアニメは放映されていたから、情緒はずっとめちゃくちゃなままだった。だってやってたら見ちゃうじゃん。体に入れたくて入れられなかったものが視界の中で光り輝いているのは、やはりとても苦しい経験だったが、それでも目の前にあふれている光は美しいから、一生懸命に見た。

そういうときに、野薔薇さんが死んでしまったらしい、という文章が、ツイッターに流れてきた。その文章が流れてくるまで、今日が月曜だと知らなかった。月曜の〇時を忘れられるぐらいには、距離を取れてきていた証拠だった。それが一瞬で崩れた。私はジャンプを買い、ぼうぜんとして、それから泣いた。翌朝はまた身体が全く動かせなくなっていた。夕方に起きて、夜にまた泣いた。

野薔薇さんは死んでしまって、私はそれを自分のこととして受け取ってしまった。これは何もいいことではない。物語に振り回されることに価値を見出している状況を無下にすべきではないが、同時に振り回される自己/振り回される他者を「面白い」ものだとは絶対に思ってはいけない。本当に抜け出せなくなる。物語、いや物語だけじゃない、自分にコントロールできない何かと自分を繋げすぎてしまったら、対象が自分を振り回すような速度の差が生じたとき、自分という主体は毛糸のようにするすると解けてなくなってしまうのだ。自分と対象の癒着にへらへらしていると、すぐに自分の側がすり減る。おとぎ話みたいに消えてなくなる。これは本当のことだ。どれだけ自分が相手を飲み込んでいたとしても、相手の痛みが相手のものでしかないということを、絶対に忘れてはいけない。

 

私がこの文章を書き始めたのは、涙を止めるためだった。私が野薔薇さんの死を、あの世界を変えるはずだった女の子の死を自分から引き剥がし、傷が広がるのを食い止め、野薔薇さんを他者として悼むためだった。他者である野薔薇さんの痛みを、ともに受け止めてきちんと苦しむためだった。ここまで書いて、やっと涙は止まった。もういい、もういいよ。私が野薔薇さんに自分の系譜を感じていたことは何一つ間違いではないし、それが表象の持つ代表性(representation)というパワーなのだと思う。でも野薔薇さんは、私ではない。私はほどけた自分をちゃんと巻き直し、他者として野薔薇さんのことを悼まねばならない。

私は死なない。ありがとう野薔薇さん。あなたのことが本当に大好きです。

 

この文章を書いたあと、どうやら野薔薇さんが生きているようだ、という展開が見えてきた。それを知ってから、静かに私の情緒は、作品から分離されていった。

今はもう、ジャンプの発売日に情緒が荒れることもなく、ただ淡々と読みたい単行本だけを入手して読むルーティーンを受け入れている。それもまた、野薔薇さんのおかげなのだと思う。

2023年の振り返り、2024年に向けた話

もう年の瀬ですね。信じられない速さで時間が過ぎていって、本当に奇妙な気分だ。

2023という年を、うまく総括できる感じがしない。破門、就職、転職、引っ越しと、あまりに巨大なイベントが続いて、本当に記録も記憶もほとんど残っていないからだ。プライベート用の日記は4000字で止まっていた。時間は溶けるように消えた。

ただ一つ、確実に言えるのは、2023年の私を救ってくれたのが友人たちだということだ。

遊びに誘ってくれる人。しょっちゅううちに泊まりに来てくれる人。つらい夜に電話をかけてくれる人。服やメイクを褒めてくれる人。家事を手伝ってくれる人。ダルい通話に付き合ってくれる人。運動や議論や情報交換をしてくれる人。私がパニックを起こしているときに、休んでいいよと言ってくれる人。引っ越しのときにギフトをくれた人。犬や猫の写真を送ってくれる人。私の仕事に興味を持ってくれる人。我が家に長逗留して家を賑やかしてくれた人。深夜の川べりを笑いながら歩いてくれた人。突然居酒屋に行きたいと言ったら着いてきてくれた人。しょうもないギャグをたくさん語ってくれた人。夜の新宿を何時間も一緒に放浪してくれた人。死なないでってメッセージをくれた人。カラオケでクィアな曲をデュエットしてくれた人。苦しいときに何も聞かないで、ただ一緒にスプラトゥーンをしてくれた人。

いろんな人が私を助けてくれた。本当に、感謝してもしきれない。そういう思い出はたくさんあるのだ。そのひとつひとつが、永遠ではない。本当はもちろん毎日死ぬまでこうやって遊んで暮らしたいけど、それが無理だって身に沁みてわかってきたから、「今」を大事にしようと思うようになった。今目の前に相手がいるから、それを一生懸命尊重する。そういうことをしたい。お互い傷つけられながら一緒にいるのが「本当」の人間関係なんだって、長いこと思い込んできたけれど、そうじゃないんだとちょっとずつ理解できてきた。人間関係に本当も嘘もない。ただ尊ぶべき他者がいるだけで。

ただまあ、一方では友人に支えてもらわずには立っていられないような怒涛の1年だった、ということでもある。まず無職から就職し、会社員になった。それから会社都合の解雇があり、転職することになった。また、引っ越しもした。その間にも学会やイベントやさまざまな書き仕事があって、首は全く回っていなかった。

特に辛かったのはやはり転職で、最終的に私はかなり希望ぴったりの職場に入り込むことができたのだけど、その過程で何度も惨めな思いをした。泣きながら親に「実家に帰りたい」とLINEしたり、Discordで通話しながら急に泣き出したりする日もあった。書き仕事はかなりの数を断らざるを得なくて、それも悔しかった。

今は週5労働になかなか慣れなくて、難しいなと感じている。したっぱもしたっぱなので、定時に上がりますと言って定時に上がっているのだが、それでも週40時間が仕事になると、余暇の時間はどうしてもぼーっとするか寝るかになってしまって、映画やアニメに触れたり本を読んだりということが全然できない。これも慣れればどうにか変われるのかもしれないけど、今のところは到底無理だ。インプットを増やさなければいいアウトプットもできないのは当然で、やっぱりインプットをする時間が欲しいと心底思っている。

ただ、仕事自体は楽しい。やりたかった(というか自分に相当適性がある)仕事だし、これまで同じようなことをしてきたノウハウもある程度は自分の中にあるから、それを一生懸命今の職場用にチューニングしている最中、という感じだ。やっぱり似たような仕事内容でも職場によって(当たり前だけど)ルールが違っていて、それは同じ言語から枝分かれした別の言語が違う文法を持っているのに似ている。

まだ私は見習いだが、これから部署移動なども踏んで、もう少し自由に仕事ができるようになると思う。それに強く期待している。

社会的状況としては、あまりにしんどいことが多かった。ガザの空爆は今も続いているし、ウクライナもいまだ戦禍の中、トランス差別の嵐は止まず、入管法改悪案は通ってしまって、増税、軍拡、教育現場の破壊と、本当にひどいことばかりで頭が追いつかない。「忙し過ぎてインプットができない」という自分個人の状況が重なって、本当にずっと苦しかった。デモにもあちこち足を運んだ。それでもまだ人があちこちで不条理に死を迎えている。それがあまりにもつらい。もっと今の状況を変えるための文章を書かなくては、と、強く思う。

今年印象に残っている仕事をいくつか貼っておく。

朝日新聞2023/4/12夕刊「にじいろの議」

新聞にインタビューではなく寄稿という形で載ったのは初めて(新聞自体は3回目)。今起き上がれない人へ、というメッセージだったので、本人に対してはもちろん、不登校の子の保護者とか、いろんな起き上がれない人のそばにいる人が読むことまで考えて書いた。結果わりと評判がよかったのと、新聞を読んで本にたどり着いてくれた方がいたので、うれしかった。

②me&you「金子由里奈✕高島鈴 「わたしたちは全然大丈夫じゃない」、それでも生きていく」

meandyou.net

金子由里奈との対談。今年はインタビューされる機会もありがたいことに多かったのだけど、この対談はことさらに楽しかった! 金子と一緒に写真を撮ってもらえたのもとてもいい思い出だ。お前もアナキストにならないか?という誘いをかけている内容です。

③レビュー「Cosmic Wheel:Sisterhood」

www.4gamer.net

めちゃくちゃネタバレのゲームレビュー。タロット(に似たカード)で運命を決定する、魔女の政治活動を描いたゲームだ。めちゃくちゃ面白く遊んだ作品だったので、4Gamerで拾ってもらえて本当にありがたかった。ほぼ編集なしで通ったのもなんだか嬉しかったです。

来年やりたいことがいくつか決まっている。

①タトゥーを入れる

年末に友人と通話していて、「自分の核は祈り、約束、追悼だと思っていて」と話したとき、あ、これタトゥーにしよう、と思い立った。英語で入れるのはしゃくだから、エスペラントで入れる。それを片手に入れるなら、もう一方は「歴史、応答、責任」にしたい、と思った。これら6つは私を生に繋留するエッセンスだ。それを見える場所に残しておきたいと思った。文字のデザインは親友に頼んだ。一生体に残るものだから、フォントの歴史までちゃんと調べよう、と言ってくれて、それが無性に頼もしかった。夏までには入れておきたい。

②イベントをやる

今年は「左翼が友達を作るイベント」として「バー高島」を開催したのだが、1回目が終わったあとに場所が使えなくなってしまい、2回目を開催できなかった。そのため、今後継続してバー高島を開催できる場所を探している。どこかやらせてくれるところがあったら教えてください。(自宅でもいいっちゃいいんだけど、さすがに初対面で自宅は、よほどのことがないと無理なので……)

③書き仕事をもっとやる

さすがに2冊目の準備をしなければならない。もっと今年は余裕を持って文章を書いていきたい。そのためにはやはり読書とフィールドワークが必要だから、まずは仕事にもっと慣れなくてはいけなくて……と思うと先が長くて気が遠くなりそうだ。でも書きたいこと自体はたくさんあるから、それを少しずつ形にしたい。人が孤独に苦しんでいるとき、同じ砂漠に違う旅人がいると示すための記事を作りたい。

そのためにも、webで無料で読める記事に注力したいのは来年のポイントかも。紙媒体も大好きだし、質感のあるものに自分の文章が刷られて広まるのは楽しく、また紙媒体でなければ出会えない相手もたくさんいるからありがたいのだけど、一方でお金がなくても読める記事を増やすのは社会的に大きな意味のあることだとも思う。自分がWeb出身のライターだから、という理由もあるのだけど、webへのこだわりはやはり強い。

今決まっているもの以外でなんとなくやってみたいことがいくつかある。話を聞いてくれる編集さんがいたら、ぜひ打ち合わせしてください。

④人間関係の構築

先に書いた通り、人間関係に本当に恵まれた1年だったのだけど、2024は(星占い的にも)「居場所を作る」ような人間関係を作りたいと思っている。もっと気兼ねなく、喜びを伝えあったり、褒め合ったり、はしゃいだり、落ち込む夜を共有したり、というのができる相手が欲しい。それは今いる友人ともっともっと仲良くなることも含まれるし、パートナーシップの問題をどうにかしたいという意味でもある。引き続き、みなさん遊びやデートに誘ってください。

来年はもっと生活も仕事も安定させて、読書や余暇を充実させたい。

というわけで、2024年もよろしくお願いします! 生存は抵抗!

 

やまと絵展が最高すぎたので何を見たのか書きます【東京国立博物館】

10月11日から12月3日まで、東京・上野の東京国立博物館では、「特別展 やまと絵――受け継がれる王朝の美」を開催しています。

黄色い背景に「やまと絵」のタイトルとたくさんの人びとの絵が配置された、「やまと絵展」HPのトップ画面。

「やまと絵展」ホームページのトップ画面。

yamatoe2023.jp

申し訳ありません、正直舐めてました。そう言わざるを得ない。凄まじい展示でした。見ている最中、本当に展示が「永遠にクライマックス」状態なのです。主役級の展示品が無数に出てくる。もう途中でコンビニの割り箸とかを展示して休憩させてください、オタクはもう疲れました、と言いたくなるくらいの情報を浴びました。

今回は絵巻大好き人間のひとりとして、展示を見学しての所感を述べていきたいと思います。

やまと絵展に足を運んだきっかけ

まず、なぜやまと絵展に行こうと思ったのか?

私は大学院で中世史を勉強していて(今はほとんど休憩中ですが)、学芸員資格も一応持っている、博物館が大好きな人間です。

中でも好きなのは中世の絵巻物でした。絵巻の魅力は語っても語り尽くせませんが、ほかの絵画にはなかなか登場しないような社会風俗まで描かれたり、細やかに描き込まれる人びとの動きがユーモラスに映ったりするところが特に好きです。中世の勉強を始めた一番最初の時期に、絵巻の表象を検討した研究に触れたことも印象深い経験としてあります。そういう理由で、都内で絵巻を目玉にした展示があると足を運ぶようにしています。

※最近だとサントリー美術館の「絵巻マニア列伝」は印象鮮烈でしたね……と書こうとして、今開催が2017年だったことに気付きました。時の流れが早すぎる。

www.suntory.co.jp

そして今回のやまと絵展の目玉は、「四大絵巻」と呼ばれる4つの中世絵巻(源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」「信貴山縁起絵巻」「鳥獣戯画:すべて国宝)が、30年ぶりに集合することでした!

これはぜひ見ておかねばなるまい、と思いました。いずれも図録は持っているのと、おそらくどこかで一部を見たことはあるのですが、一度に全て見られる機会というのは、もうそうそう巡ってきません。

この集結は開幕〜10月22日まで。この期間は展示期間の種別でいうと第1期に当たり、展示期間中は全4期それぞれに展示替えが行われます

10月24日から11月5日まで(第2期)は、源頼朝(実際には足利直義像で確定していますが、所蔵元の神護寺の意向でこういう名称になっています/一昔前の教科書には頼朝の肖像画としてよく掲載されていたようです)を含む、「神護寺三像」という巨大な肖像画(国宝)も展示される予定とのことでした。

私は神護寺三像見たさに京都国立博物館の国宝展に足を伸ばしたこともあるくらい、この絵が好きです。またあのデカすぎる肖像画に対面したい!! これは2回行かないといけませんね。

ここまでが私の知っていた事前情報でした。しかしこの後、私は3回目・4回目の見学を真剣に考え始めます。なぜなら展示がものすごかったからです。

中世絵巻が、ありすぎる

↑正直この見出しに尽きます。こんなにいっぺんに中世絵巻を見たら、めちゃくちゃになっちゃうよ。そういう量があります。

展示品リストを見ると、限られたシーズンしか出ない展示品も含めると、全部で245点が出品されることが確認できます。そう言われてもピンとこないかもしれませんが、ブツの多くが大きな屏風絵とか、長ーい絵巻なので、想像以上のボリュームでした。

そして、オタクの「見たい」にかなりの確率で応じている。これが凄まじかったです。

だいたい博物館で絵巻を見ると、「この絵巻があるなら、あれも見たいなあ」という欲が出てくるものです。それが、だいたいある。さすがに全部とは言いません(今回で言うと、新蔵人絵巻などは一緒に見たいと思いましたが、出品されていませんでした)。しかし、たとえば「春日権現験記絵はないのかなあ」と思っていたらあったし、「石山寺縁起絵巻はないのかなあ」と思っていたらあったし、「一遍聖絵は?」と思ったらあったのです。

展示を見ながら「あったらいいな」と思った絵巻がマジで出てくる。それが「一瞬で叶う夢の連続」という感じで、ものすごい体験でした。明日死ぬのかな???という勢いで、欲望が満たされていく感覚がありました。

見どころはたくさんあります。まず驚いたのが、「病草紙」がかなりの数集まっていることでした。

「病草紙」は、病に侵されたものとして扱われる人びとと、その周辺の人びと(ケアしようとする人もいれば、嘲笑っている人もいます:中世において病とは業の結果だからです)を描くものです。扱われている症例も独特で、中世において何が病とみなされていたのかを考える上でも参考になります。元は絵巻でしたが、今では断簡(節目ごとに切り取られた状態)で、サントリー美術館九州国立博物館など、さまざまな博物館に所蔵されています。

これが、1期だけで5点も展示されていました。具体的には、「眼病治療」、「霍乱の女」、「不眠の女」、「屎を吐く男」、「痣のある女」です。

特に印象的だったのは、「不眠の女」です。自分が不眠に悩まされている人間であることも影響しているのですが、この絵では夜半にひとり起きるしかなくなっている女性の表象とともに、同じ布団で眠る女性たちの姿も描かれているのです。

中世だと、身分の高い女性は側仕えの女性と一緒に眠ることが多々あったようですから、この絵もその延長線上で見ることができます。一方で、女性同士が同じ枕を使って眠る姿には、思わずクィアリーディングしたくなるような誘惑もあり、「見られてよかった」と思った作品のひとつになりました。

なお、後半では男性の格好をしたペニスとヴァギナを両方持つ人物が描かれた「ふたなり」(※現在では不適切な語彙ですが、絵画の名称として固定されているので、ここではそのまま表記します/出品目録にも「作品名称のなかには現代用語として適切ではない表記もございますが、文化財登録名称のためそのまま使用しております」の表記あり)も展示されます。インターセックス的な体のあり方が中世においていかに疎外されてきたかを考える貴重な史料です。これは見にいきたい。

そして、「知らない絵巻」に出会えたことも大きな魅力でした。今回出ている中で気になったのは、「馬医草紙」という、馬の病の治療法について描いた絵巻です。どうやら断簡のようですが、馬への医療行為に関する絵巻が存在したとは知らず、興味深く見学しました。

他にも屁こき芸で大金持ちになった隣人を妬んだ人が真似をしようとして大失敗する「福富草紙」、「庭に人間の生首を絶やすな」でおなじみ(?)の「男衾三郎絵巻」(※私が行ったときに展示されていたのは当該シーンではありませんでした)など、絵巻ファンならよだれの止まらなくなる作品がガッツリ見られました。

国宝が、ありすぎる

これもまたすごい話。

アナキスト的には「国宝」という国家に承認されて価値を持つようなランクづけに対して「帰ってくれないか」みたいな気持ちが明確にあるんですが(もっと文化財保護に万遍なく・躊躇なく金を出せという怒りも含む)、博物館のオタクとしては、なかなか無視できない部分があります。

それは法律です。

国宝は法律上、年に2回以内、年間60日以下しか展示できないことになっています。「この国宝はみんなに見て欲しいから、何ヶ月も展示しよう」「何回も展示しよう」みたいな暴挙は(そもそも保存のことを考えずに展示する学芸員さんはいないと思いますが)、法的にブロックされているということです。

つまり国宝は、狙ってタイミングよく見に行かないと、なかなか見に行けないということになります。また、「まとめて見る」ことも難しいのです。

ところがどっこい……「やまと絵展」は……245点中53点が国宝です。これはパーセンテージに直すと、約21%、5点に1点は国宝だということです。

ほかの展示がどういう割合で国宝を展示しているかまでは調べたことがないのでわかりませんが、この数字を見ると、やまと絵展ではかなり集中的に国宝を見ることができる、というのがわかると思います。

もちろん時期によって展示品が違うので、実際に見られる数はもっと少ないのですが。

しかしながら、これが前近代美術に触れる最高の機会のうちの一つであることは、まず間違いないでしょう。

グッズが、ありすぎる

そしてもちろん、博物館ファンとして見逃せないのがミュージアムグッズです。

今回のやまと絵展でも、いくつか事前に話題になっていたグッズがありました。

開くと1メートルを超える「絵巻抱き枕」や、

信貴山縁起絵巻に登場する米俵のクッションなどです。(信貴山縁起絵巻には、命蓮という僧侶が小さなお椀を操って大量の米俵を移動させる、という奇跡が描かれています。はっきり言って見た目からはすぐに文脈に辿り着けない、たいへんハイコンテクストなグッズです)

これ以外にも、グッズの定番である絵はがき、全くクリアではないクリアファイル、マスキングテープ、米俵マークつきのお名前スタンプ(これも本当に文脈がわからないと意味不明)、百鬼夜行絵巻の妖怪がデザインされたお誕生日アクキー、トレーディングマグネット、百鬼夜行絵巻に出てくるなんかよくわからない赤い妖怪のぬいぐるみなど、多種多様なアイテムが売られていました。なぜ作ったのかよくわからないものが多いですが、多くのミュージアムグッズはなぜ作ったのかよくわからないところに魅力があるので、これは最高です。

ちなみに図録は3300円。ボリュームからすると相当お得に感じます。すべての会期の出品作品が掲載されているので、グッズに関心がない人や遠方の人は図録のみ押さえておくのもありです。

結論:また行きたい すぐ行きたい

やまと絵展は総じてボリューミーで、小学生が体験する結婚式のコース料理くらい長いです。情報量も多いので、体力と気力が必要になります。現在展示は土日祝のみ予約必須の時間制です。ぎゅうぎゅうというほどではありませんが、休日はそれなりに混雑します。混雑込み、流し見せざるを得なかった部分も込みで、私は全て鑑賞するのに2時間かかりました。これはそれなりのハードルだと思います。また、鑑賞料も成人で2100円と、安くはありません。

それでもまた行きたいと強く思わせられる、鮮烈な鑑賞体験が得られました。私好みの展示品だらけで、終わったあと「全身が中世になった……」と感じたくらいでした。とにかく面白く、楽しかったです。

これから展示替えが3度行われ、また少しずつ違った展示が見られるようになります。今後もそれなりの混雑が予想されますが(なんたって神護寺三像が東京に来るんですからね)、また気合いで見にいきたいと思っています! みなさんもぜひ!!

 

余談

11月19日まで、滋賀県大津市歴史博物館では、「近江堅田 本福寺」展という展示が行われています。

https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/2308.html

堅田は中世の琵琶湖で漁業権を握ってブイブイ言わせていた湖畔の集落で、本福寺にはその集落の歴史が刻まれています。

私はもともと修論を滋賀の葛川という集落で書いたので、堅田の展示と聞いて「何それ最高! 見にいきたい!」と思ったのですが、交通費が全く調達できず、「見に行けない……」としょんぼりしていました。

その後大津市歴史博物館学芸員のTさんが偶然『布団の中から蜂起せよ』をご存知だったことから、図録をご厚意でご恵贈いただくことになり、歓喜していたのですが……今回のやまと絵展でまた違う「堅田ラッキー」(堅田ラッキーって何?)がありました。

なんと土佐光茂の筆と伝えられる、中世堅田の集落の様子を描いた「堅田図屏風」が展示されていたのです!

思わずじっくりまじまじ見てしまいました。湖畔に立ち並ぶ家々は、見ているだけで当時の賑わいを感じさせます。

さらに2期〜4期にかけては、また別の「堅田」(同じく伝土佐光茂筆)も出品されるとのことです。こちらも見たい!

それにしても、今回の堅田図の出品は、大津の展示を意識したものだったのでしょうか?

私と同じく大津への旅費を工面できずに歯噛みしている人へ、東京でも少しばかり堅田の空気が嗅げますよ、というお知らせでした。

 

余談の余談

10月22日で伴大納言絵巻はひと足早く展示が終わってしまいます。

しかしながら、東博ミュージアムショップ(注:本館のほうです! やまと絵展が行われている平成館ではありません)では、こんな薄い図録が売られています。
f:id:doronosu:20231021181956j:image

伴大納言絵巻オンリーの、全編を解説した手軽な冊子です!

たった510円で、伴大納言絵巻の全貌を見ることができます。

展示で見逃したという方はぜひこちらを入手してみてください。それ以外にも、本館のミュージアムショップでは列島じゅうの展覧会図録が売られています。ぜひチェックしてみてね!

#新星急報社 さんでハンジ・ゾエのイメージアクセサリーを作ってもらった

※『進撃の巨人』のネタバレを含みます。

さまざまなもののイメージをアクセサリーに起こしてくれるハンドメイドアーティスト・新星急報社さんの受注会に参加してきました。

shinse.thebase.in

もともと存在は知っていたし、Twitterでは(おそらくそれなりに長い間)相互でもあったのですが、いかんせんアクセサリーにあまり興味がなかったので、これまで受注会のお知らせがあってもスルーを決め込んできました。

アクセサリー、なくしそうだし、そもそも身体に何か重いものがまとわりついているのは好きではない。これは確かにそうなのです。

しかし最近になって、私は周囲の友人に影響されて、当社比で服にお金を使うようになりました。ちょっといい服をメルカリで買うのがたまの贅沢になったのです。するとなんとなく、服にお金を使うのにアクセサリーを何もしないのはちょっともったいないのではないか、という気が湧いてきました。せっかくヘアスタイルもベリーショートなんだし、耳に何かついていても、よくない? あと顔に近いところにアクセサリーがあったほうが、顔への視線が分散するんじゃないか?

そう考えていたころ、服もアクセサリーも大好きな友人・呉樹直己に新星急報社さんの受注会に行かないかと誘われました。なんでも呉樹は自分のイメージする理想のアクセサリーを新星急報社さんで作ってもらったらしい。他の人は聞くところによると、自分のキャラクター解釈を持ち込んで、それをアクセサリーにしてもらっているようだ。これは……やってみたいぜ!

というわけで、行ってきました。

●オタク、ハンジさんのプレゼンをする

まずはキャラクターについてのプレゼン資料を作ります。今回は私が人生の目標としている人物、進撃の巨人』のハンジ・ゾエさんについて考えていくことにしました。

ハンジさんにしようと思ったのは、人生の指針となる人物の視線を常に身のそばに置いておきたかったからです。私はマジで「ハンジさんのように生きる」を一つの目標にしています。『進撃』については以前長い批評を書いた時に感極まってハンジさんのマグカップを買ったりシールを買い込んであらゆる貴重品に貼ったりしていたのですが、それだけでは足りなかったのです(これを書いているPCにも、スマホにも、ハンジさんのシールが貼ってあります)。

生活にもっとハンジさんが……欲しい!!!!!

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上記の記事は全部で2万字です。

しかしながらオーダー会は1人1時間です。あまり長い資料を読んでもらうわけにはいきません(案内によると、10分以内に読める分量が目安だそうです)。

なるべく簡潔に、要点のみを押さえて、自分なりに「基本情報」「好きなところ」「名場面」を整理した資料を作りました。

『進撃』のあらすじはほぼ説明していません。超有名タイトルなのでなんとなくの筋書きはご存じだろうと思ったのと、キャラ解釈をモノに起こしてもらう上で、『進撃』の長く複雑な話を全て説明するのはむしろノイズになるのではないかと思ったからです。

重要なのは自分にとってのハンジ・ゾエがどのように輝いているかだ、と意識しながらまとめていきました。

以下、貼り付けます。(実物は原作のスクリーンショットを引用していますが、ここでは割愛しています)

 

ハンジ・ゾエについて

基本情報

諫山創進撃の巨人』の登場人物

9月5日生まれ

170cm 60kg

目の色:ブラウン

調査兵団第四分隊隊長→第十四代調査兵団団長

(巨人の跋扈する街の壁の外を調査しにいく集団の、幹部の一人)

物語の途中で隻眼になる。

ゴーグル(メガネ)がトレードマーク。

好きなところ
  • 根底に憎しみがありながら、好奇心の方を選んだ人である。

└最初は巨人への憎しみから調査兵団を志望したが、次第に巨人に対する興味が湧き、巨人という生き物に対する純粋な関心と憧憬を動機として動くようになる。

  • 自分が不得手としていることであっても、必要があればそれを行動に移すことができる。

└もともとは協調性のない人物だが、エレンによる虐殺を止めるため、自らが中心となって人びとをオルグする選択を取る。

└拷問は自分で行い、まだ子どもといえる年齢の主人公たちには手を出させない。

  • 感情的な人物で、作中怒ると最も怖いキャラクターとされている。

└怒りのエネルギーを強く持った人物である点に惹かれる。

  • 死者との対話を続けていた人物である。

└ハンジが重要な決断を下すとき、そばには死んでいったはずの調査兵団の仲間たちが立っている。ハンジが死んだときも調査兵団の亡霊たちが迎えにきた。

  • 絶望的な状況であっても、疲れ果てていても、最後まで希望を捨てない人物である。
  • 常に対話を試みようとする人物である。
名場面
  • 「我々はやるしかないんだよ… みんなで力を合わせようってヤツを」

絶体絶命の危機に陥り、一度は弱音も吐いたハンジだったが、やがて「自分だけ蚊帳の外で見ていることはできない」と再起し、これまで敵対していた相手に対して手を組もうと提案する。「ってヤツを」は、『進撃』においては特にやりたくないこと・不本意なことを口にするときに使われる表現。

  • 「…疲れた …いや まだ調べることがある」

兵政権のトップとして追及を受ける中、へとへとに疲れ果ててなお自分の果たすべき使命を思い出して立ち上がるところに、ハンジの魅力がある。

  • 「虐殺はダメだ!! これを肯定する理由があってたまるか!!」

みなが自分の故郷を救うためなら虐殺も已むを得ないのではないか、という方向に傾いていく中、ハンジは強く虐殺を止めることにこだわる。

  • 「この島だけに自由をもたらせればそれでいい そんなケチなこと言う仲間はいないだろう」

調査兵団の死者たちの意志を受け継ぎ、背負う者としての覚悟が詰まったセリフ。

  • 「だから… 会いに行こう わからないものがあれば理解しに行けばいい」

これまで自分が暮らしてきた土地が島であり、人類が絶滅したと思われていた外の世界には未知の人たちがいて、自分たちを憎んでいる――それが発覚したとき、まず対話をしようと試みたのがハンジであった。

  • 「…やっぱり巨人って 素晴らしいな」

巨人の群れによる虐殺を足止めするために一人で仲間を見送ったハンジが、死の間際に発したセリフ。自分が絶対に死ぬとわかっているときに、目の前にいる生き物の美しさをありのまま受け止める。怒りと好奇心で生きてきたハンジが最後に意味を見出すのは好奇心の側であった。こののち、ハンジは焼け落ちて命を落とす。

 

……以上のような内容を、コピーして2部用意し、お見せしました。

新星急報社さんには「資料を2部印刷して持ってきてくれた人は初めて」「資料がわかりやすい!」と言っていただけました! うれしい!

●実際に作っていく

最初にパーツは金がいいか銀がいいか聞かれます。私は金のほうが似合うと自負しているので、金でお願いしました。そして「どんなボリュームがいいか」を確認されました。私はイヤリングを希望していたので、まず重くなりすぎないもの、そしてそれなりにボリュームのあるもの、というのを希望しました。

キャラクター説明の後に「お見せしたいパーツがあるんです」と言われて差し出されたのが、ハンジさんの目の色をしたジルコンの原石と、それを磨いた小さなパーツでした。メモをもとに話を再構成すると、こういう感じです。

「ジルコンの原石は中に不純物がたくさん入っていて、一見地味な石なんです。でもそれを磨くと、金剛光沢というダイヤモンドに似た強い光り方をする石になります。この『一見地味な石を磨くと違ったものが見えてくる』というのが、ハンジさんの好奇心を象徴するパーツになるかなと思いました。また、金剛光沢の多面的な輝きも、壁の外の輝きや、ハンジさんの多面性、一筋縄ではいかない感じにつながるかと思います」

う〜ん……いい!!!!

でもこの時点ではまだアクセサリーとしてのイメージが湧いていません。今度は私が準備してきた話をします。

もともと新星急報社さんのアクセサリー写真で見つけた、ぜひ使いたいパーツがあったのです。それがシェルでできた両手のパーツでした。

真夜中の伝えそびれたコーヒーのイヤリング | 新星急報社

↑このアクセサリーに使われていたパーツです。

オタクの解釈的には、ハンジを超えて調査兵団の話にもなってくるのですが(というか「理解することをあきらめない」という同じ意志を持つアルミンのイメージも流入する)、パラディ島の人びと/調査兵団にとって好奇心の対象であった海を象徴する貝殻という素材と、敵対する人たちの手を取って繋げたハンジの仕事、そして武器を握る大事な部位、というイメージを込めて、このパーツが最適であると判断したものです(ここまで一息)。

オタクの主張は笑顔で許容され、シェルパーツも使うことになりました。それから提案されたものは順番がうろ覚えなので、呉樹直己が残してくれたメモの順序に従って書き起こしてみます。

(今回痛感したことなのですが、お話をしながらメモを取るのは非常に難しいので、友人と2人で受注会に参加し、片方が話している間もう片方がメモを取る、という形式にするとあとでブログなどの記録が残しやすいと思いました。)

  • 歪んだ輪(内輪)……採用

小さめの金の輪です。ポンデリングみたいな感じでぼこぼことしています。

自分の理念を通すことが集団の利益(虐殺の阻止)になっていく、という展開を輪の形状で表してみてはどうか、とご提案いただきました。よく見ると歪んでいる感じの円のパーツも同時に出していただきましたが、ぼこぼこの円を見た瞬間にハンジがこれまで敵対していた人たちとともに火を囲んだときのあのいびつな輪が想起されたので、ぜひこちらを使ってください、とお伝えしました。

  • プラスチックに金属をメッキしたビーズ……不採用

見た目は金属だが実は軽い、というパーツ。好奇心を持って触らないと重さがわからないところがハンジさんらしいのではないかとご提案いただきました。デザインがあまり好みではなかった(金パーツでまとまりすぎる感じがした)ので不採用としましたが、自宅に帰って風呂に入っているときにふと「見た目が重そうなのに持ってみると軽いって……巨人の頭じゃん!!」となり、時間差で興奮しました。また作る機会があったら採用したいです。

  • 大きい歪んだ円……採用

自分の行動で世界を変えていくハンジさんの姿勢を、内側から外側への広がりとみなし、大小のフープを重ねてみてはどうか、と提案を受けました。最初は正円を重ねてもらいましたが、「歪んだものはありますか?」と聞いて歪んだ円を出してもらいました。内側の円が世界を変えるための小集団なら、外側の円は世界だろうと思ったので、世界の不条理さを歪みに見出したかったからです。

最初は円の内側に手が収まる感じでしたが、パーツの組み合わせを調整して、円の外に指先がかかる感じにしていただきました。世界の内側で留まるのではなく、世界の外側に出ていくのが調査兵団なので……。円の中で伸びる手はエンブレムっぽさもある、と新星急報社さん。確かにそれっぽい。

 

ここまででかなりイヤリングの形は整ってきていたのですが、もっとアクセサリーっぽさが欲しくて、大きい石はないですか?(安直)と聞きました。ジルコン以外でハンジさんっぽい石、と考えてもらって、いくつか候補をいただきました。

  • カルセドニー……採用

母岩ごと削った水晶です。水色、透明、茶色、白、黒が入り混じったマーブルカラーです。海の雰囲気もありつつ、多面的な感じの石だと説明を受けました。いろいろな色が入り混じって一つになった石、という点にハンジがオルグした抵抗の輪を感じとり、採用としました。私はハンジが虐殺に抵抗するために人の輪を繋げたという点がものすごく好きなので、ここを押し出したデザインにできてうれしかったです。

また後から考えたのですが、明るいベージュや白にところどころどす黒いものが混じっている石だったので、怒りや憎しみからその挑戦を出発させたハンジさんの暗い部分もイメージできて良いな……と思いました。一言で説明できない混沌とした色味である点も、ハンジさんらしいです。

個体差が大きかったので、なるべく混じり気の多そうなものを選ばせていただきました。

  • ラリマー……不採用

宝石を砕いた破片を銅でもう一度固めて削った石のパーツです。バラバラのものを繋ぎ合わせているところや、海を想起させる水色である点からお勧めしてもらいました。が、海のイメージが強くなりすぎるとアルミンのアクセサリーになってしまいそうだったので、やめました。

  • 化石珊瑚……不採用

化石になった珊瑚をビーズに削ったものです。黒や灰色、白っぽいものがありました。これも太古のロマンを感じさせ、ハンジさんのキーワードである好奇心を煽るような石だなと思いました。ただ見た目が地味めで、私が期待する「アクセサリー感」と違ったので、不採用にしました。

 

●そして完成へ……

これで全体がまとまりました!

以下が出してもらったパーツと、それを仮に組んだ様子です。


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これを組み立ててもらって、こうなりました。

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か、かわいい〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!

写真がいかんせん下手くそでピンボケっぽくなっているのが申し訳ないのですが、めちゃくちゃかわいいです!

世界を表す歪んだ輪の外側には磨かれたジルコンと混じり気の多いカルセドニー。これはハンジさんの原点である好奇心や憎しみを思わせますし、さまざまな人を組織して困難に立ち向かったこともイメージさせます。

そこからさらに、急拵えながら世界が必要としていた連帯を示す無骨でいびつなぼこぼこの内輪、無骨なジルコンの原石が繋がり、外輪に届く手のシェルパーツへ至ります。

手は武器を握るものであり、他人との縁を繋ぐものであり、死者のために祈るものです。自分の手で世界を確かめに行ったハンジ・ゾエという人の生のまたたきを感じます。(私は本気の目でこれを書いています。)

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たった1時間でこれだけ鑑賞しがいのある「私のハンジ・ゾエ解釈」を立ち上げてくださった新星急報社さんには、本当に深く感謝しています!

みなさまも新星急報社さんに己のキャラ解釈をぶつけてみてはいかがでしょうか。きっと想像以上の答えが返ってくると思います。

※一応注記しておきますが、これはPR記事ではなく、すべて私の趣味で書かれています。