昨日から今朝にかけて、ゲンロンの三宅香帆さん・松田樹さん・森脇透青さん・植田将暉さんの批評イベントのアーカイブを見た。感想はいろいろある中でこれを最初に言うのは自意識過剰かもしれないと思うんだけど、マジでこの批評の文脈で私の名前を出されるのが意味わかんないなと思いました。以下はその「名前の出され方」に関する殴り書きです。イベント全体の感想に関しては特に言及していません。
・2時間30分前後くらい、「女性的な文体の文芸批評家が文芸誌に集まっており、男性的な書き手はコンテンツに言及せず哲学の方にいる。文学/哲学の書き手が交差しない」という森脇さんが提起した文脈で、前者として植田さんが私と水上文さんの名前を挙げたと思います。そこで植田さんが「高島さんは文芸誌に書いてるのか知らないですけど……」と言っていて、いやそこが分からないならその文脈で名前を出す意味もなくなりますよね?と思いました。私が書くもの読んでないのでは? 別に読まなくていいけど、じゃあ何を以て私を批評家だと思ったんでしょうか……。
・私をコンテンツの批評家として見るなら、私が一番言及してきたのは何より漫画(特に少年漫画)です。私を最初に書き手として見出して鍛えてくれたのは文芸誌ではなく「ねとらぼ」だったし、『布団〜』に収めた批評的なエッセイの多くは音楽媒体であるele-kingに掲載されたものですし、少年漫画批評連載もwebちくまに載りました。小説の批評は雑誌の中に1〜2ページ載る短いレビューを除いてほとんど書いたことがないです。文芸誌にも年一でごく短いものが載る程度で、文藝ではもう数年書いてないです(ほぼ水上さんと入れ替わりです)。なのに「文学・文芸誌文脈の書き手」に私を入れるのは、マジで、「読んでないけど、ちょっと賞を取った女性だから名前は出しとこう」ということなんじゃないですか? 私にも失礼だし、文芸批評ジャンルで努力しているほかの書き手の方々にも失礼なんじゃないでしょうか?
・あと水上文(みずかみ・あや)さんのことを登壇者が全員読みを間違えている(ずっと“みなかみ”さんと発語してましたね)&コメントでも誰も指摘しない状態で話してましたが、そこも女性の書き手について、雑な認知のままなんとなく名前を出しているように見えた原因です。失礼だと思いました。
・単純かつ根本的な疑問なんですけど、なんでこういうときに最初に名前が出るのって毎回「私と水上さん」なんでしょうか。フェミニズム文芸批評という枠を設定するなら水上さんが当てはまるのは理解できますけど、少なくとも私の名前を出すより先に話題にされるべき人(もっと文芸誌で文学の話をしているフェミニズム批評の書き手)がいる、ということは確実に言えると思います。
・こういう自己言及の確認とそのされ方の拒絶をいちいちするというのは、くどいようですが自意識過剰な行為だとは自覚しています。でもそれをせざるを得ない程度に「男性ではない書き手」が変に何かの代表扱いされたり根拠なく矢面に立たされたりロールモデルとしての期待を過剰に背負わされたりする状況が今の人文系テキストのフィールドなので、警戒せざるを得ないです。はっきり言えば私は幾度となく「非-男性枠」「フェミニスト枠」「〈こちら〉の批判者枠」で都合よく位置付けられてきたことに疲れています。